仕事


 降水確率20%それでも、外は雨。
 天気予報士のおじさんが解説してくれる降雨確率よりも、お天気お姉さんがにっこり笑って『晴れで〜す。』と言ってくれた方が、外れた時に許せる気がしないかい。

「はあ。」

 トイレから聞こえる成歩堂の話に、王泥喜は適当に相槌を打った。
 やれやれ、外に洗濯物を干さなくて良かったなどと所帯じみた事を思っていると、 事務所の扉の前に人影が映る。傘の雨粒を振り落とす人物を見て、王泥喜は立ち上がる。それに気付き、響也はにこりと微笑んだ。
「邪魔するよ、おデコくん。」
 ひと抱えはある紙袋を片手で支えている。傘を畳んで扉の横に立て掛けると、急いで両手に持ち替えたから、相当に重いようだ。
「牙琉検事、どうしたんですか?」
「うん、ちょっとね。」
 響也の足元や肩は濡れ、髪も先端が解けかけているほどに湿っている。どうやら、傘は余り役に立ってはいなかったようだ。王泥喜は棚の中からタオルを取りだして渡そうとするが、肝腎の響也はキョロキョロと視線を彷徨わせ、王泥喜を視線に入れてはいなかった。
 探す仕草に、ああと王泥喜は思う。
 きっと、みぬきちゃんの為にグッズを持ってきてくれたのだろう。
 ファンである彼女に響也は酷く甘い。女の子にモテたくて始めたバンド…というだけの事はあり、ファンに対する態度は丁重だ。親しい分だけより丁寧な接客なのは当然だろうが、王泥喜には少々胸が焦げる。
「みぬきちゃんはまだ学校ですよ。」
「え? えと、これは…。」
 響也は少しだけ困った顔で笑うので王泥喜の顔には、再び疑問が浮かんだ。

「それ僕。」
 トイレの扉からジャージの腰を持ち上げながら出てきた成歩堂が、片手に持った新聞を振った。王泥喜は眉間に皺を寄せる。
「成歩堂さん。新聞をトイレに持ち込んだら、又みぬきちゃんに怒られますよ?」
「平気、平気。此処にみぬきいないから。王泥喜くんさえ黙っててくれれば平気。」
 それは一種の脅迫だと呆れる王泥喜は素通りし、真っ直ぐに響也の元に向かった。ペタペタという間抜けな足音が近付く。
「わざわざ、すまないね。響也くん。」
「そんな事ありません。」
 本当に嬉しそうに響也が笑うので、王泥喜は目を剥いた。
 自分も不得てな成歩堂だが、響也は七年前の事の経緯もあり過剰な程に反応を返す。そんなところが面白いらしい成歩堂は、響也をからかうのでふたりの中はいつも剣呑だ。
 なのに、なんだこの笑顔。
こんな屈託ない顔など自分ですら見たことがないと、王泥喜は内心穏やかではいられない。
「お役に立てるなら何よりです。」
「期待に添えるか…は、自信がないがね。」
 成歩堂が自嘲気味に口元を歪めると、響也は一瞬で眉を潜めた。無言で俯いてしまうから、王泥喜も咄嗟に掛ける言葉を探せない。
 しかし、王泥喜の心配をよそに、成歩堂の手が響也の後頭部に伸びた。ふっと微笑んで響也の顔を覗き込み、幼い子供にするようにポンポンと叩くと、やっと響也が顔を上げる。
「何というか、本当に君は可愛いね。」
「…。」
 ああ、もうそんな事を言ったら、また牙琉検事が拗ねるじゃないか。 
 後で愚痴を聞かされるのは俺で、宥めるのも大変なんだぞ。そんな王泥喜の懸念にも係わらず、特別に怒り出す事もない。そうして、響也は困った顔のまま笑った。
「からかわないで下さい。貴方はいつもそうだ。」
 そうして、胸元に抱えていた紙袋を両手で成歩堂の腕に押し付けて、響也はくるりと背中を向けた。
「あ、あれ? 牙琉検事。」
 俺は無視ですか!?
「…ごめん、また今度。」
 短くそう告げて扉を潜る。開け放たれた扉から聞こえる雨音が一段と強くなった気がした。

 一体どうしたというのだろうか。

 はっと気が付き、王泥喜が成歩堂を振り返った時には、彼は手にした袋をテーブルに置いたところだった。
「ヨイショ。」
 と掛け声と共に置かれた袋は、両端を抑えていなかった為に中身を床に滑り落とさせた。バサリという音共に、床に広がったものは厚めの本。
 落ちても腰を叩き、ん?などと言っている成歩堂の代わり、王泥喜は床に向かって手を伸ばした。
「牙琉検事、どうしたんでしょう?」
 そう言いながら拾い上げて見れば参考書。『司法試験・難関試験合格』
 王泥喜自身も数年前にお世話になった代物だ。年代は比較的新しいから、響也のものではなさそうだ。
「響也くんの知り合いで断念した人がいるらしくてね。一式譲って貰えるっていうから、お願いしたんだよ。」
 成歩堂は袋の中に手を入れて、無造作に取りだし眺めている。目を丸くした王泥喜が凝視しているのに気が付くと、えへへと笑う。
「良い暇つぶしにもなるし、ね。」
「いえ、本気で頑張って下さい。応援してますから。」
 落ちた本を成歩堂に手渡しながら王泥喜はきっぱりと言い切った。
驚いた表情を見せた成歩堂も『ありがとう』と礼を述べ、笑う。

 苦手だろうとなんだろうと、王泥喜にとっても成歩堂は憧れた事もある弁護士だ。一連の事件でみせたその手腕は、驚愕を感じる事はあっても衰えを感じさせるものでは無い。その彼が、もう一度法廷に立つというのなら、応援しないはずがない。
 
 …だから、牙琉検事はあんなに嬉しそうだったんだ。

 穏やかな笑みを浮かべていた彼を思いだし、王泥喜も妙な嫉妬心を抱いた自分を恥じる。俺も応援しますからね、と心に誓おうとして、『個人授業とか、響也くんやってくれるかなぁ。』という色物親父発言を前に早々にとり止めた。
「自力で頑張って下さい。検事も俺も仕事が忙しいですから。応援だけならいくらだってしてあげますので。」
「冷たいねぇ〜あれ?」
 ふと玄関に目をやった成歩堂の視線が止まる。王泥喜もつられてそちらに目をやり、入口に残された傘を見つけた。
「誰の?」
「牙琉検事の……傘も持たずに出たのか、あの人は。」
  窓越しの雨は本降りになっている。遠目で空に光が走っているのも見えるから、もっと酷い降りになるかも知れない。
「ちょっと、出てきていいですか? 勢いで外へ出て困ってるかもしれないんで。」
「ああ、雷も鳴っているみたいだから気を付けてね。彼、じゃらじゃらしてるから。」
 雷が落ちるといいたいのだろうか。本気か冗談か迷っていれば、冗談だよと答えが返った。その触覚も気を付けてねという台詞は、もはや右から左へ受け流しだ。

「意地だけじゃなくてもう一度やりたいと思うんだから、弁護という仕事がやっぱり僕は好きなのかも知れないなぁ。」
 ポツリと呟いた成歩堂のひとり語を背中に、王泥喜は事務所を後にした。


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